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KAIZEN Footmarks

少年、学生時代

いすゞ編

技術部時代(いすゞ入社から技術屋としての改善体験)
鶴見製造所時代(製造所の統括としての改善実践体験)
IPS(いすゞプロダクションシステム)推進室時代(いすゞグループ全体の改善実践)
開発CR(コストリダクション)推進部時代(開発部門を中心とした、いすゞグループ全体の改善実践)
さよならいすゞ自動車(世界への旅立ち)
主な出来事 エピソード
1949年12月8日
奈良県御所市名柄に生まれる
土井喜信・敬子の長男、二歳上の姉佳子との二人姉弟
数学の先生に廊下で目が合うと、コンパスで良く殴られた。何故殴るのですかと聴くと・・・・

1:1965年4月 国立奈良高専 機械工学科(The Department of Mechanical Engineering at Nara National College of Technology)入学

1970年3月 国立奈良高専 機械工学科卒業

就職を決める際、車が好きだったので、教授に一番経営体質の悪い自動車会社に行きたいと希望し、教授は・・・・・


2: 同年4月 いすゞ自動車株式会社 入社

お前が問題だと言っている事は、皆、お前たちの先輩がやった結果なんだぞと・・・・


3:同年7月 川崎工場 技術部 工具課 配属
業務内容・切削、研削等の加工工具及び工法の設計と研究開発---------------多数、論文発表、特許申請

技術部だけの為に仕事をするのではなく、製造部等他部門も含む会社全体の利益の為に仕事をすると宣言――――――――――――――上司から気違い扱いされる。


4:1971〜75年 殆どの時間、機械加工現場で油まみれになって、現場で困っている問題の解決と新開発工具、工法の研究試験に没頭。

先輩である渡辺さんは、「切削・研削技術は、トラブルを解決するのに時間がかかり、又、打った対策に余り理論的裏付けが無い。土井君に・・・


5:1972〜74年 切り屑処理の良い工具の開発

いかに刃先に温度を集中させないで切り屑を細かく切るか、この研究が現在の世界の切屑処理、堅押しチップブレーカーの草分けに・・・・


6:1973〜75年 刃具交換のクイックチェンジ化

作業者は数秒で刃具交換ができ(ボルトレス)、交換精度は数ミクロン以下という・・・・・


7:1973〜75年 フライス、各種穴あけ工具の高能率加工化と長寿命化の理論の確立と新工具の開発。

各種穴あけ工具の寿命、信頼性の低下に対する理論究明を行い、マージンと切れ刃を円周上に分離したドリル、リーマ、タップの開発と実用化、精機学会で論文発表、特許取得・・・・

8:1973〜76年 研削砥石の最適ダイヤモンドドレッシング理論の確立と開発

研削砥石の切れ刃を最高の状態に確保しながら・・・・


9:1973〜74年 新大型V型ディーゼルエンジンの機械加工ラインの自前化と生産準備

いすゞでは、量産立ち上がり時点のトラブルが続出し、それを初期流動期間と定義して一般化していた。全く情けない話しである・・・・


10:1973年 無責任ないすゞの体質の事例、新大型V型ディーゼルエンジン、コンロッド加工トランスファーM/Cの立ち上げ不具合対策と可動率向上対策−T

いすゞの生産技術の係長は言った。
「もし土井君の提案を採用して、うまく行かなかったら、全部いすゞか責任を持たなければならない。しかし・・・・


11:1974年 無責任ないすゞの体質の事例、新大型V型ディーゼルエンジン、コンロッド加工トランスファーM/Cの立ち上げ不具合対策と可動率向上対策−U

今まで機械メーカー任せで育ってきている為、どうすれば良いかの改善案が出せない。結局、土井君何とか成らないか・・・・・


12:1975年7月〜85年 鶴見製造所 所内の総コストの管理、改善推進の統括

「改善の重要さを解らない管理職はいらない。この工場から出て行け」と言って、工場から放り出した。これを見た従業員は・・・・


13:1976年〜81年 加工ラインの一個加工、一個流しラインの製造所全面展開。
日本IE協会全国大会で(サンケイホール)、一個流しへの挑戦を発表。
雑誌 I E紙に掲載 (一個流しへの挑戦)

一個加工一個流しラインを作るまでは楽しかったが、そこで働くことはあまり楽しくないと言った。よくよく考えてみると、何も考えないで、同じ作業をやらせる事は、非人道的行為であると気付き・・・・


14:1978年 鶴見の常識は、世間の非常識、他の会社を招待した改善活動でわかった。人は、他社の多くの人が注目して見ると、自然に全力で働こうとする。

ここで私は、二つのことを学んだ。また改善は、永遠に続くと、実感・・・・


15:1977年〜82年 工程で品質を造り込む

品質チェックは100%。もし不良品を後工程に流しても、次工程の機械と自工程の機械は作動しない。品質チェックを忘れても・・・・


16:1979〜83年 異常は許さない、リアルタイムマネージメント・タイムベースマネージメント

10分経ってもラインが動かないと担当課長がダッシュ、30分経っても駄目なら所長が現場にダッシュ・・・・


17:1978年〜81年 スタッフの本来の仕事、事務作業からの解放し現場改善へ、全国パソコン先進企業事例発表会(大阪テイジンホール)で事務のゼロ化を発表

所内の全スタッフを集め、スタッフへの本来の仕事は何か、人間の真の価値を生む仕事とは何か、と問いかけたところ・・・・


18:1979年〜81年 ティクルシステム、スパイラルアップ

「前回の対策は対策になっていない。本当の対策を打つように」とコンピューターが自動的に・・・・


19:1982〜83年 作業者と共に働き、作業者のロードの低減や作業の容易化を助けるロボットの開発。

ロボットは、省人化の目的で導入されていた。私は、省人化ではなく、作業者の働きを助けるロボットを作りたかった・・・・


20:1977年〜78年 弱体化した保全部門の体質改善。
真のTPM−T
一個流しラインの機械故障は、致命傷

一個流しラインを展開し始めると、保全の悪い体質が表面化してきた。これは何とかしなければと思い、問題意識を持っている保全のスタッフをプロジェクトの仲間に誘った・・・・


21:1980年〜82年 弱体化した保全部門の体質改善。
真のTPM−U
保全のモデルマシン、土井マシン

保全の現場は私のことを[いくら口でかっこいい事を言っていても、実際には機械の事も知らないくせに]と思っている。そこで・・・・


22:1983年〜85年 弱体化した保全部門の体質改善。
真のTPM−V
新しい保全課長が就任、小集団共同責任体制の確立

[ただの直してやる修理屋]から、[機械が常に健康で、そしてより健康になる機械に改良する]攻めの仕事に転換したのである、パラダイムチェンジである。我々はこれを真のTPM・・・・


23:1975年〜78年 製造所、全加工ラインのライン段替え10分以内の達成。シングル段取り−T

管理者、監督者が実際に段替えの実態を知らずに、現場からのデーターを鵜呑みにして、「あの機械は段替えが大変だ」と言って現状を変えようとしない現象を、打破したかった・・・・


24:1980年 製造所、全加工ラインのライン段替え10分以内の達成。シングル段取り−U

生産部門の副社長も見ている中、32台のM/Cのライン公開段替え会が実施され、緊張した中でスタートした・・・・


25:1980年 社長を騙すな。社長の鶴見製造所訪問

ある日、社長が鶴見製造所を視察するという情報が入ってきた。それを聞いた課長連中は大騒動・・・・・

26:1981年 かんばんシステムの導入、鶴見製造所全面展開。−T  導入編

正に「トヨタ自動車の大野耐一さんありがとう」である。ところが・・・・・


27:1983年 かんばんシステムの導入、鶴見製造所全面展開。−Uかんばんは改善の道具

ある日、ゼネラルモーターズの幹部からいすゞのかんばんを見たいという依頼があり、結局、本当に運営しているのは鶴見製造所しかないということで・・・・


28:1984年〜85年 全員、毎日改善への挑戦(生甲斐のある職場作り)−T 第4工場  6R CRANK SHAFT加工ラインのIPS改善モデルライン登録

その工場は、製造所の中で全ての指数が最低であった。結局、土井がやれという事になり・・・・・


29:1986年6月 さようなら鶴見製造所

私をいすゞ自動車から、私と同じ志を持つ、いすゞ自動車の協力企業のオーナー会社のところへ出向させてください。そして・・・・・・


30:1986年5月 IPS推進室に移動
ファイナルアッセンブリーラインの平準化システムの全社展開。

私が考える平準化は、車に使われる各々の部品が、ファイナルアッセンブリーラインの生産によって、消費される各々の部品の実際のサイクルタイムと、本来あるべきタクトタイムに対してのギャップが出る、そのギャップをいかに少なくするかである・・・・・・

31:1987年 ノックダウンの12台ロット梱包から一台梱包化へ・・平準化システム U

ファイナルアッセンブリーラインでも、同じ日に同じ車を作る事は殆どない。まして販売量の少ない海外で同じトラックが売れるわけがないと思い、本当に同じものを12台や6台で梱包しなければならないのか、海外営業のヤル気のある若いスタッフに調べてもらった。すると・・・・・


32:1987〜88年 月、週間の工場の平準化生産を阻害しているのは誰だ、生産販売のジャストインタイムの構築。

1.5年間の過去のデーターをコンピューターから拾い出した。ここで分かった事は、驚いた事に・・・・


33:1986年〜90年 車体工業(いすゞのNO1子会社)の改善指導、水すましによるアッセンブリーラインへの一個(一セット)供給の構築とからくり作りでTPM特別賞を受賞

工場長と、MN推進室長は、4個か5個からやらせてもらいたいと私に言ったが私は、頑として、一個を譲らなかった。何故そんなに一個にこだわるのですかと・・・・


34:1986年〜88年 平準化生産をベースにサプライャーにもメリットがある、かんばんシステムの全社展開。平準化発行と電子かんばん化計画 (新技術に反対される)

新技術研究所の社長、副社長は、「かんばんを電子化するとはとんでもない。又、かんばんの発行を調整して平準化する事もとんでもない、とんでもない企画書だ。」と言った。すると・・・・・


35:1988年〜89年 タイでも出来た全員参加の改善活動、いすゞIEMTの全員改善による生産性、生産量4倍に向上

私は、「現在の人員で、1直体制で十分今後の増産に対応できますよ、1 ̄2年後に、あの頃2直なんて馬鹿な事を考えていたなぁーと笑い話が出来ますよ」と、笑って答えた。それを聞いていた若い三菱商事の人が、真剣にそんな手品のような事が出来るのですか、信じられない・・・・・


36:1990年〜91年 新四トン車収益対策、エンジン部品の加工ラインの改善 (ごまかしの指数を工場長自身が正し、改善に集中)

すると原価企画は、「土井さん、どうもおかしいのですよ、すべての生産部門が労務費予算を達成した報告になっているのですが、実は、赤字なのです。」と・・・・・


37:1992年12月 開発部門 CR推進部へ移動
開発が中心となった協力企業も入ったいすゞグループ全体の改善活動

私は、今までの改善活動を通じて、製造部門だけの改善には、おのずから限界があり、もっと上流の製品開発、製品設計の段階からの全社的な改善が必要だと常々感じていた。丁度・・・・


38:1994年1月 さよならいすゞ自動車、世界への新たな挑戦

私は、いつの間にか協力企業の人達から改善の神様と呼ばれるようになった。私の昇進、昇給の評価は、最高であり、何処もが土井さん土井さんと頼り、その頃から私のチャレンジスピリットが・・・・・


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